【第5回】「老年看護学は奥が深い」〜ビベン・フィクリアナさん(インドネシア 1期)

オーストリア行きを断念し、EPA一期生として来日したビベンさん。言葉の壁に苦労しながらも、患者との会話で日本語を習得。帰国後は修士号を取得し老年看護学と大学教員に。その傍ら、100万人規模の海外労働者組合の委員長も。今は、地方代表議会(DPD)西ジャワ州代表議員(2024-2029)として活躍しています。

Q. EPAに応募した経緯をおしえてください。

看護大学を卒業後、オーストラリアで就職することになっていました。ただ、2005年にバリ島で爆弾テロ事件があり、オーストラリア政府はビザを出してくれませんでした。友人が、EPAのことを教えてくれて、応募しました。日本語はできなくてもいい、ということだったので。1000人の応募者のうち、104人の看護師候補者の一人として選ばれました。

Q. 渡日後のことについて、教えてください。

2008年8月に、EPA第1期として渡日しました。6ヶ月間、大阪で、日本語の研修を受けました。渡日直後に、オーストラリアから3年のビザが降りるという知らせがきました。しかし、EPAの研修は途中で止めることはできない、といわれました。

2009年2月から、福岡の病院で研修を受けました。午前中は、検査の付き添い、入浴、食事やお茶の準備など、午後は麻痺のある患者さんの入浴介助などをしました。

Q. 忘れられない患者さんはいますか。

100歳を超えた寝たきりの認知症の女性がいました。毎朝私が毎日摘便をし、体のケアをしていました。ただ、体にさわると、毎日大きい声で「ドロボー!」と叫ぶので、困惑しました。

私は、時間があるときはいつも、患者さんたちと会話をしていました。私には日本語の勉強になりましたし、高齢者の方たちにも喜ばれて、一石二鳥でした。インドネシアのことや日本のことなどを話しました。親しくなって院内の喫茶店のプリンを下さった患者さんがいます。また、話しながら、患者さんの病状について気がつくこともあり、医師や師長に報告しました。どんなときにも患者さんをしっかり観察するのが看護師の仕事ですから。帰国するときには、みなさんに、「ビベンさん、帰らないでください」と言っていただきました。

Q. 国家試験の準備はどうでしたか。

私の病院では勉強のサポートは十分にいただけなかったのが残念です。平日の夕方、勤務時間外に、勉強時間をいただき、勉強部屋や参考書もいただきましたが、先生はいませんでしたし、何をどう勉強すればよいのかわかりませんでした。

Q. 帰国後の活動について教えてください。

大学院で修士号をとり、バンドンのパジャジャラン大学の看護学部で、地域看護学や老年看護学を教えています。老年看護学は奥が深くて興味深い分野です。2013年にはJICAのプロジェクトに携わり、インドネシアの看護師のスキル向上のためのトレーニングプログラムづくりをしました。2017年からは、大学の専任教員になりました。学生には看護のスキルを高めてほしい。国際部の責任者となり、平野裕子先生(長崎大学)のオーラルケアのプロジェクトや、米野みちよ先生(静岡県立大学)のプロジェクト(本プロジェクト)にも関わっています。

*Padjadjaran University

社会貢献のための活動もされてるんですよね。

ボランティアで地域の高齢者看護にも携わっています。また、インドネシアの移住労働者協会の会長もしています。100万人のインドネシア人移住労働者がいますが、人身売買なども多いのです。私たちの摘発で、逮捕された人もいます。特に女性に被害者が多く、胸が痛みます。インドネシア看護協会の西ジャワ支部とは、看護師の待遇の向上を交渉しています。二つの老年医療クリニックの顧問もしています。毎日忙しいけど、充実しています。

大活躍ですね。将来の夢を教えてください。

高齢者ケア・リゾートを作りたいと思っています。社会的起業をして、リハビリやいろいろなアクティビティができるような設備を、作りたいと思っています。

(インタビュー:2022年11月11日、加筆:2026年9月6日)

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