【第2回】マニラでEPA候補者の日本語教育に携わるジャニス ダイスさん(フィリピン第1期)

Q. JEPEAプログラムに参加された経緯についてお聞かせください。

2009年5月、家族をフィリピンに残して来日するという、母親として最も困難な決断を下しました。三人の娘を夫に託すことにしました。妹もサポートしてくれました。

Q. 日本での最初の数週間はどうでしたか?

家族と別れて来日したあの日は忘れることができません。興奮、喜び、緊張、悲しみ。まだ幼かった娘3人と別れて、胸が張り裂けそうでした。

日本語の知識はゼロでした。「ここで生きていけるのだろうか?」と考えましたが、すべてを受け入れ、前に進むしかないと覚悟を決めました。

Q. 日本語を学んだ経験について教えてください。

6ヶ月間、語学研修を受けました。先生は全員日本人で、何を言っているのかわかりませんでしたが、少しずつ日本語を覚えていきました。しかし授業は日に日に難しくなりました。

Q. 病院での仕事と勉強ついて教えてください。

病院の皆さんはとても協力的でした。午後は、勉強の時間がありました。週に2回、日本語の先生が病院に来てくれました。それ以外の日は、看護師長が医療用語や漢字を教えてくれました。

病院から歩いて数分の寮に住んでいました。勤務は週5日。練習のために、毎朝、病院の部屋から部屋を訪れ、すべての患者さんに日本語で自己紹介をしました。

Q. フィリピンに戻ろうと思ったきっかけは何ですか?

最初1年間で、3人の子供たちの幼少期を見逃していたことに気づきました。1年後、休暇を取りましたが、当時1歳だった末娘は、私のことを思い出せずにいました。私が「ママはどこ?」と尋ねると、彼女は「ママは日本だよ、コンピューターにいるんだ!」と答えたのです。

このまま日本にいるかどうかを判断するために、2011年5月に2度目の長期休暇を取りました。次女の様子を見た瞬間、「この子には母親が必要だ」と強く思いました。夫と話し合って、子どもたちが私を必要としているので、これ以上日本で働くのはやめようと決断しました。

フィリピンにいる家族の状況と、もう契約を続けないという決意を伝えると、病院の皆さんは驚いていました。しかし、最終的には私の状況を理解してくれました。そして、2011年12月、フィリピンに帰国しました。

Q. 日本での忘れられない体験はありますか?

内科病棟に入院していた脳梗塞の患者さんです。体の片側が麻痺して、治療を受けていました。彼女は言葉が不明瞭だったにもかかわらず、毎日熱心に、英語で私と会話をしてくれました。

私は、言語治療の一環として、彼女と英語で会話をしました。1ヶ月後、退院間近の彼女がナースステーションに来て、泣きながら私を抱きしめてくれました。思わず涙がこぼれ落ちました。他の看護師も皆、涙目で私たちを見ていました。1年後、彼女は検診のために再び来院しました。会社から来たということで、彼女はスーツ姿でした。脳梗塞から完全に回復していて、別人のようでした。私のことを覚えていてくれてとても感動しました。

Q. これからEPAを目指す後輩たちにメッセージをお願いします。

フィリピンに帰国してからは、看護師や介護士を目指す人たちに日本語を教える職につき、日本語を有効活用することができています。日本で看護師として働いた経験は、私に多くのことを教えてくれました。とても感謝しています。

 

 

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